2009年07月03日

縄文海進により大阪湾が発生

縄文海進により大阪湾が発生、南部から突き出た上町台地を砂嘴とする半島ができ、東部は河内湾となる。弥生時代になると半島は砂州となり河内湾は淡水化、やがて河内湖となる。河内湖周辺は自然環境に恵まれており、農耕の発展により大規模集落が出現し、海運や大陸との交易の拠点となる。
大阪湾の奥、淀川・大和川の河口に突き出た上町台地が大阪の町の原点である。5世紀には難波高津宮、7世紀には難波長柄豊崎宮と、政治の中心(の1つ)が置かれた。また、後には難波京が置かれるなど、奈良盆地の政治勢力の瀬戸内海における外港として、古代では度々政治的な拠点となった。
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211年 - 神功皇后・田裳見宿禰により住吉大神鎮祭(住吉大社の起源)。
313年 - 仁徳天皇、難波の高津宮に都を定める。
住吉津(墨江の津)が定められる(場所は、住吉大社の南に流れる細江川の地域)。
593年 - 日本仏教の最古の官寺として、聖徳太子により四天王寺が創建される。
645年 - 大化の改新により大阪市域の難波長柄豊埼宮(難波宮)が日本初の本格的な首都となる。
794年 - 首都機能が平安京に統合され副都として存続した難波京が最終的に廃止される。
949年 - 村上天皇の勅により大阪天満宮が創建される。
中世には京都に政治の拠点が移動したため、その瀬戸内海の外港の地位も大輪田泊や神崎などに移ったが、その間も四天王寺や住吉大社周辺は宗教的な要地として、また渡辺津は熊野や住吉巡礼の拠点・淀川河口の拠点としてある程度栄えていた。その後蓮如により上町台地突端に石山本願寺が開かれ、全国の浄土真宗の総本山となった。その寺内町では商工が発展した。

1496年 - 蓮如が大坂に石山道場(のちの石山本願寺)を建立、広大な寺内町で商工業が発展する。

2009年06月13日

無機化学(むきかがく、inorganic chemistry)とは

無機化学(むきかがく、inorganic chemistry)とは、研究対象として元素、単体および無機化合物を研究する化学の一分野である。通常有機化学の対概念として無機化学が定義されている為、非有機化合物を研究対象とする化学と考えて差し支えない。

無機化学では炭素以外の全周期表の元素を取り扱い、炭素を含む化合物であっても有機化合物とは見なされない炭素の同素体や一酸化炭素などの化合物も含まれる。有機化合物はおよそ地表にのみ存在するのに対して、地球はほとんどが無機物質で構成されているといっても過言ではない。工業的にも鉄鋼やセメント、ガラスなどの無機工業製品は生産トン数で考えた場合には有機工業製品を圧倒している。しかし、その多様性と複雑性のため、すべての元素の性質を簡単な理論で説明できるわけではない。

有機化合物以外の物質を研究する化学は無機化学の範疇に含まれるため、研究対象により細分化された錯体化学、有機金属化学、生物無機化学(無機生化学)、地球化学、鉱物化学、岩石化学、温泉化学、海洋化学、大気化学、宇宙化学、放射化学、ホットアトム化学なども広義には無機化学である。
感染症
ケーブルテレビ
インフルエンザ
バイオリズム
戯曲
天体
喜劇
真菌学
日本画
宇宙ステーション
地層の作り
神社案内
未知の宇宙
脳と神経
日本の重要文化財
下町東京
広島の歴史
不動産用語
サンタはどこ
牛の生涯

歴史 [編集]
錬金術の成果が書物として中世ヨーロッパに伝えられ、その博物学的知識の集合が近代化学の礎となったがそのほとんどは無機化合物についての知見であったし、化学自身を研究対象により分類し区別することもなかったため、18世紀以前は化学と無機化学とは同義であった。

18世紀終わり頃から19世紀初頭にかけて、発見されるいわゆる有機化合物の種類が増加するにつれ、起源による物質の分類と研究対象による研究領域の区分が試みられるようになった。1806年頃、スウェーデンの イェンス・ベルセリウスは、有機体を意味する "organ" から有機化学 (organicchemistry) や有機化合物 (organic compound) という語を初めて使用した。それが学術語や学問領域として定着するにつれて、有機化学および有機化合物に相対する学問領域として無機化学と無機化合物という概念が生じた。

有機化学においては基により反応性あるいは特性が大きく異なることから、無機化学に比べて早い段階から、基の研究を通じて構造論と反応論が展開していった。一方、近代無機化学においては周期律をはじめとする組成論を中心とした研究が中心であった。無機化学における構造論の起源となるのは、1883年にドイツの アルフレッド・ウェルナーが提唱した配位子理論(配位説)である。その後は金属錯体を中心に無機化学は展開し、錯体化学において無機構造化学が確立された。20世紀後半に入ると電子顕微鏡やX線構造解析などサブミクロンサイズの物理計測が可能になることで構造論は飛躍的な発展を見せることになる。今日の無機化学においては高温超伝導物質のペロブスカイト相など構造論を中心とした研究が主流となっている。

2009年06月09日

公務員や民間企業の社員としての獣医師である

公務員や民間企業の社員としての獣医師である。公務員については大きく国家公務員と地方公務員に分けられ、更に所属の違いによって本省庁と出先機関に分けられる。

国家公務員であれば農林水産省や厚生労働省、地方公務員であれば各都道府県や市町村の本省庁や各出先機関に勤務しそれぞれの施策・業務に従事する。このうち、本省庁では予算や法律の執行及び政策立案などの事務的業務が大部分を占めるため、現場で動物を触るどころか見ることすら殆ど無い。執務中の服装も、見た目には普通の会社員と何ら変わりはない。

国家公務員としての獣医師 [編集]
獣医職としての採用がある省は厚生労働省および農林水産省の2つ。
活躍の場所は本省、全国の空港や海港に設けられた「検疫所」や「動物検疫所」など。なお検疫所は厚生労働省、動物検疫所は農林水産省の所管である。
「検疫所」は人の伝染病(感染症)の海外から日本国内への流入、及び日本国内から海外への流出を未然に防ぐ重要な機関であり、獣医師職員はこのうち輸入食品の確認検査の業務を担当している。
「動物検疫所」では輸出入される生きた動物、食品以外の動物製品に由来する伝染病・感染症の流出・流入を未然に防ぐ業務をしている。
検定 産業 ネイル 転職 しわ取り 法人設立 賃貸 介護 警備 メンタル 植物 予備校 インテリア スクール ホテル 健康 水族館 やせる 資産運用 プレゼント エージェント 乗り物 包茎 通信販売 リフレ ファッション セミナー 信越北陸 パソコン 公園 化粧品 雇用 予約 サプリ 分譲 やせる 転職 運送 包茎 成人病 リフレ アウトドア 家庭教師 近畿東海 語学 旅行 健康 キャッシング 美容整形 弁護士

地方公務員としての獣医師 [編集]
「公務員の獣医師(行政獣医師)」は、動物愛護施設や公立の動物園・水族館などを除いて動物の診療に従事することは少ないが、業務の性質上人事異動を避けて通ることは出来ない。このため、どこへ異動してもすぐに異なる業務に従事できるよう(例:保健所⇔本庁⇔動物園)、常に高度な獣医学的知識と技術を要求される。また業務内容の違いにより根拠となる法令も多岐にわたることから、これら法令を含めた幅広い視野と知識並びに一般常識が同時に要求される。また、獣医師のみではできない業務もあるため他分野を専門とした職員との連携も大切である。

「食肉衛生検査所」からと畜場へ出向き、食肉の検査を通じて食用の家畜の病態調査やO157・BSEなどの人獣共通感染症対策及び残留抗生物質対策に従事する者(と畜検査員)。
「保健所」において、食品衛生監視業務、環境衛生監視業務、薬事監視業務に従事する者(食品衛生監視員,環境衛生監視員および薬事監視員)。動物愛護施設が別にない場合は動物管理業務を含む。また、人獣共通感染症の専門家として感染症予防法に基づく業務にも従事する。
「動物愛護施設(自治体により名称は異なる)」において、狂犬病予防法や動物愛護法にもとづき保護された犬猫ほかの動物の管理・殺処分・譲渡、動物愛護普及啓発業務、及び動物取扱業や特定動物飼育施設の監視業務に従事する者(狂犬病予防員及び動物監視員)。なお化製場等に関する法律にもとづく届出は、通常保健所の所管であるが、動物愛護施設で取り扱う場合もある。
「衛生研究所(自治体により名称は異なる)」等の試験研究機関において、衛生検査技師(または臨床検査技師)として主に人の感染症や食品衛生に関する研究・検査業務に従事する者。
「家畜保健衛生所」において、BSEや高病原性鳥インフルエンザをはじめとする家畜の感染症など、生産性に悪影響を及ぼす各種疾病の検査・診断業務及び予防対策に従事する者(家畜防疫員)。
「動物園や水族館」にて展示動物の診療を行なう獣医師であっても、その経営母体が都道府県や市町村などの地方公共団体であれば、同様に地方公務員となる。
「畜産試験場」において、家畜の改良増殖に従事する者。
「林業試験場」において、狩猟の監視・許可や野生動物の保護に従事する者(特に、関東地方の林業試験場に多く配属されている)。
「水産試験場」において、魚類をはじめとする水産動物・植物の改良増殖に従事する者(2008年2月現在、水産試験場における獣医師は三重県科学技術振興センター水産研究部及び大分県農林水産研究センター水産試験場・内水面研究所以外には配属されていない)。

2009年04月25日

辺境で局地的な勢力均衡

18世紀初頭までのヨーロッパ内での勢力均衡は、ブルボン家とハプスブルク家の間の大きな利害対立をイタリアで調整することによって成り立っていた。中世以来分裂傾向にあったイタリア半島をヨー

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ロッパの辺境と位置づけ、イタリア半島すべてを直接支配する勢力を排除することにより、この辺境で局地的な勢力均衡を実現して利害を調整し、全ヨーロッパ的な勢力均衡を保っていた。ところが「東方問題」の期間には、1789年のフランス革命とその後のナポレオン戦争の進展により国民主義の風潮が全ヨーロッパに波及し、国民国家を求める意向を無視してイタリアを分裂状態にとどめておくことは困難になってきた。ハプスブルク家オーストリアの従来の政策は、バルカン・東欧方面への拡大と中欧・南欧(ドイツ・イタリア)方面への拡大との二方面の選択肢があった。しかし、イタリアでは国民主義の運動がオーストリアの影響力の排除を望むかたちとなって現れ、ドイツ方面への進出にはプロイセンという有力な対抗勢力が存在した。結局はドイツ帝国成立(1871年)によりオーストリアはドイツの統合からはずされ、最終的にアウスグライヒ体制(すなわちオーストリア・ハンガリー帝国、1867年成立)を形成するといったように、この時期を通じて東欧の大国を目指す路線が徐々に明確となった。

一方で、17世紀後半からピョートル1世のもとで近代化政策を推し進めたロシアは、大北方戦争での勝利者となり(1721年)、積極的に黒海への南下を図り、同時にドナウ川沿岸にも影響を及ぼそうとしていた。このことが、「東方問題」の時期には、同地域に影響を拡大しようとしていたオーストリアとの利害対立を生じさせた。

またこの期間、イギリスは自国と植民地インドを媒介する地中海経路を確保しようとしており、伝統的に地中海に大きな影響力を保持しているフランスはイギリスと対立する傾向にあった。

このようなヨーロッパの状況を背景に、オスマン帝国の支配領域をめぐって「東方問題」という外交問題が発生した。「東方問題」が顕在化するのは、ロシアが黒海沿岸のアゾフをめぐってオスマン帝国と交戦した1736年露土戦争である。この戦争では、ヨーロッパの勢力均衡が著しく損なわれるのを防ぐために紛争の当事者以外が「東方」をめぐる紛争に介入するという「東方問題」の基本的な構造が現れた。以後「東方」をめぐる数々の紛争の解決にあたって、オスマン帝国とヨーロッパ列強との外交によってヨーロッパの勢力均衡を実現するという構造が見られるようになり、「東方問題」はヨーロッパ近代外交の主要な一角を形成した。ギリシャ独立戦争(1821年?)では、各国政府が当初介入に消極的であったのにもかかわらず、世論の後押しによって主要な政治問題に発展した。「東方問題」が最も活発化した時期と考えられるのがクリミア戦争(1853年?)で、「東方」において英仏とロシアは全面的に軍事衝突し、これが戦後のヨーロッパの政治状況にまで大きな影響を及ぼすこととなった。1878年のベルリン会議によって列強間の利害問題としての「東方問題」に一応の決着がつけられ、1880年代のヨーロッパは「ビスマルク体制」のもとで一応の安定がもたらされたかに思われた。しかし実際にはバルカン諸民族はこのベルリン会議の決着に納得しておらず、バルカン半島は紛争の火種を抱えて「ヨーロッパの火薬庫」でありつづけた。

2009年04月08日

覚えやすいメロディーラインもあるが

楽曲
メロディ
覚えやすいメロディーラインもあるが、息継ぎがしづらい曲も多い。

歌詞
中島みゆきの曲には、日常風景の一部を切り取り、そこを行き来する男と女や働く人々をテーマにし、その一人一人にスポットライトを当て、その心情を曲にのせるものが多い。非常に巧みな比喩表現を用いており、聞き手によってそれぞれ異なった意味を受け取ることができる。また、普遍的なテーマを歌詞にしていることも非常に多い。例えば、1991年発売のアルバム『歌でしか言えない』収録曲の「永久欠番」。この曲は、「人は誰しも唯一無二の存在である」ということをテーマにした曲で、東京書籍発行の中学校用の教科書『新しい国語3』に引用されている。

対照的に、工藤静香に提供した「MUGO・ん…色っぽい」や西田ひかるに提供した「きっと愛がある」のように軽いノリの詞も存在する。ただし、この2曲に関しては、いずれもCMのキャッチコピー(「MUGO・ん…色っぽい」 - “ん、色っぽい”(カネボウ)、「きっと愛がある」 - “アイがある”(三菱電機))にひっかける方が望ましいと中島が指示を受けていた経緯がある。

また、「見返り美人」や佐田玲子に提供しセルフカバーした「くらやみ乙女」のように、悲劇に内包される喜劇性を最大限に強調したユーモラスな詞も存在する。中島みゆきの作品世界を自己パロディ化したような内容でもある。

歌唱法
基本的に、深いブレスと力強い声質を生かして朗々と歌い上げる。曲によって、また曲の中でも情景や詞が含む感情によって、いくつもの声色を使い分けている。例として、「地上の星」と「ヘッドライト・テールライト」の歌いまわしの違いが挙げられる。同じアルバムの中でももっと声質の大きく異なる曲が収録されることも多い。歌っているときの声と普段の喋り声とのギャップも著しい。なお、転調が得意であるため、転調する曲が多い。

記録
オリコンで4つの年代に渡ってシングルチャート1位を獲得した唯一のソロ・アーティストでもある。
1970年代:わかれうた(77年)
1980年代:悪女(81年)
1990年代:空と君のあいだに(94年)、旅人のうた(95年)
2000年代:地上の星(03年)
アルバム・シングルを併せたCD・レコードのトータルセールスでは、2005年までの時点で2131万枚。女性ソロ・ミュージシャンとしては歴代8位。女性シンガーソングライターとしては5位。
オリコンアルバムチャートでベスト10入りした枚数では、松任谷由実、松田聖子に次いで歴代3位。
地上の星がオリコンウィークリーチャート100位以内に連続してチャートインした週数では歴代1位(2005年現在)。
50代で週間オリコンシングル一位を記録した唯一の女性歌手であり男性でもサザンオールスターズ(桑田佳祐のソロも含む)と石原裕次郎と小田和正(歴代最年長記録)しか記録していない大記録である。

ライバル
ユーミンこと松任谷由実は、かつて「ライバルは?」と聞かれ「中島みゆきさん」と答えていた。テレビ・ラジオ等でユーミンは「みゆき」と呼ぶ。逆に中島は、『中島みゆき お時間拝借』で「松任谷」と呼んでいた。

1980年代以降、トレンドに合わせた楽曲でヒットを飛ばす松任谷由実と、己の道を行く中島みゆきを「月と太陽」、「光と影」とするような対比が多く見られ、ユーミンは「恋愛歌の女王」、中島みゆきは「失恋歌の女王」、「女の情念を歌わせたら日本一」などとよく形容された。当人同士は、そうした周囲の対比をさほど気にもかけていない様子。同年代で交友もあり(ユーミンの夫松任谷正隆が中島の曲のアレンジを担当したこともある)、互いに認め合っている。

1984年、中島のコンサートツアー「明日を撃て!」のパンフレットに寄稿したユーミンは、「私がせっかく乾かした洗濯物を、またじとーっとしめらせてしまう、こぬか雨のよう」と中島の音楽を評し、「でも、そうやってこれからも一緒に、日本の布地に風合いを出していきましょう」と締めくくっている。一方、中島は自身の著書『愛が好きです』の中でユーミンのことを「尊敬している」と語っている。

二人は今までに雑誌で1回、ラジオで3回対談している。ラジオの1回目は『中島みゆきのオールナイトニッポン』である(1983年6月13日)。ラジオの2回目は『松任谷由実のサウンド・アドベンチャー』の『ユーミン・オータムスペシャル with 中島みゆき』(1994年10月23日)の5時間スペシャル。3回目は、中島がユーミンのインターネットラジオ(『ウィークエンドスペシャル 松任谷由実はじめました』、2001年8月24日)に約7分間飛び入り出演した。 ラジオの1回目の対談では、結婚している松任谷由実が独身の中島みゆきの色欲の処理についてからかい「バカヤロー」と呼ばれている。

また、ライバルでは無いが『谷山浩子のオールナイトニッポン』(木曜二部)にたびたび出演していた。谷山浩子にあみんの「待つわ」を無理やりデュエットさせられたこともある。

台湾における知名度
MTVチャイニーズのホームページ内「音楽評論家のアフターヌーンティー」コーナーには「中島みゆきの創作力は、広く認められている。彼女の作品は、常に香港や台湾の歌手にカバーされ、日本のみならず、アジア全域に中島みゆきの音楽が行き渡ったと言っても過言ではない」と書かれている。

膨大な数のカバー曲や、日本音楽業界との密接な関わりにより、中島のニュースは時々台湾の新聞でも見かけられる。中国時報、聯合報の両新聞社の情報バンクだけを取り上げても、ここ十年間における中島に関する報道は、年間20〜30件ある。

台湾の詩人曾淑美は、文学雜誌で中島みゆきに関する評論を載せ、評論家湯禎兆も蘋果日報に「中島みゆきの名にちなむ」という文章で中島を紹介した。作家劉黎兒も中島の長年のファンとして知られ、自身の作品の中に、幾度も中島のことや歌を書き上げたことがある。

プレシン スタン ガッツ ジャー ひのえま トーイ プールバ ジメチル ウイット ブチュ ディス ハピパラ ていてつ コチニー ハトムギ トライク 紅葉雪 スカラ はちのへ ストラ 熱帯雨林 ストーン テンス もみじが NETリブ 恋待月 サーチ 桜坂 チシェリー トートナビ フェノール ツルコ のへじ トレラ ルーセン つるみ デジカルビ ディパー オーナラ すぎごけ デルフ マニフェ デリン ようとう スエヒ レソト スイング リベート ハッピー ミリグラム

2009年03月24日

伊那電気鉄道の電車

伊那電気鉄道の電車(いなでんきてつどうのでんしゃ)

本項では、伊那電気鉄道(現在の東海旅客鉄道飯田線の一部)が保有した電車について記述する。
伊那電気鉄道は、発足当初は伊那電車軌道と称し、1909年(明治42年)12月、軌道法に準拠した「軌道」として辰野 - 松島間を開業し、1911年(明治44年)には、伊那町までが、軌道法準拠により建設された。伊那町以南は、軽便鉄道法に準拠[1]する「軽便鉄道」として建設され、1927年(昭和2年)に天竜峡までの全区間が開通した。

その間、1919年(大正8年)8月に社名を伊那電気鉄道と改称し、1923年(大正14年)3月に辰野 - 伊那松島間、同年12月に伊那松島 - 伊那町間を改築のうえ地方鉄道に変更し、架線電圧を600Vから1200Vに昇圧した。

このような経緯により、伊那電気鉄道の車両は、1923年の昇圧を境として2期に区分することができる。昇圧後は、一部の600V用電車が付随車に改造されて、1200V用電動車による牽引用に残されたほかは、新たに1200V用電動車を新造し、取替えられている。

伊那電気鉄道は、1943年(昭和18年)8月1日に、路線の連続する三信鉄道、鳳来寺鉄道、豊川鉄道とともに戦時買収され、鉄道省の飯田線となった。この時点で在籍していたのは、電気機関車9両、電車29両(電動車15両、付随車14両)、貨車51両(有蓋車24両、無蓋車27両)であった。

また、伊那電気鉄道の車両について特記すべき事は、自社松島工場での車両製造能力を有していたことで、自社用ばかりでなく、他社(岡崎電気軌道、三河鉄道、筑摩電気鉄道)用の車両製造も請け負っていた。

昇圧前の車両 [編集]
この時代の車両は、延べで2軸電動客車14両、ボギー電動客車3両、2軸付随客車5両、2軸電動貨車6両の計28両である。

伊那電気鉄道が軌道を生い立ちとしたことから、路面電車規格の4輪(2軸)車が主体である。開業時には電動客車3両、付随客車1両、電動貨車1両の計5両であったが、軌道法に基づく辰野 - 伊那町間では連結運転をすることができないため、同車の使用開始は地方鉄道法に準拠して建設された伊那町以南開業時にまでずれ込んだ。また、連結運転ができないという事情から、電動貨車を多数保有したのも特徴である。

また、1921年(大正10年)9月には、在籍車に廃車や譲渡により欠番を生じていたことから、番号整理のための改番(以降「第1次大改番」と呼ぶ)を実施している。

電動客車 [編集]
1 - 3
1909年12月認可により、東京の天野工場で製造された2軸電動車である。前面は3枚窓で中央窓上に行先幕、同窓下に前照灯を装備している。出入り台は開放式で、側面窓は8枚、屋根はモニター形である。定員は38人、自重は5.3t、電動機は25PS×2で台車はブリル21Eである。集電装置はポールによる単線式で、2基を屋根中央部に装備している。
第1次大改番時には番号の変更はなく、1924年(大正13年)度に除籍されたものと思われる。
1, 2(?) → 7, 8
1911年(明治44年)に、後述の電動貨車1両とともに天野工場で製造された2軸電動車である。車体等の詳細は不明であるが、定員は37人、電動機出力は36PS×2に変更されている。1914年(大正3年)に次項の4 - 6が製造された際に、7, 8と改められている。
しかし、前述のとおりとすると、同じ電動車である前述の1 - 3のグループと番号が重複するものがあったことになるが、これは開業したばかりの鉄道線に軌道線用として新造したの2両(4, 5と付番されていた?)を振り向け、鉄道線用の1, 2としたのではないかと鉄道史研究家の白土貞夫は推定[2]している。第1次大改番時には、他の車両が7, 8と付番されていることから、それまでに処分されたものと考えられる。
4 - 6 → 6 - 8(2代)
1914年(大正3年)に汽車製造で製造された鉄道線用の2軸電動車である。定員は37人、自重は7tで、車体はモニター屋根の角張った車体である。電動機は37PS×2で、台車はブリル21Eである。第1次大改番では、6 - 8(2代)となった。昇圧後は使用停止となり、1932年(昭和7年)7月12日付けで廃車、解体された。
10 - 12 → 9 - 11(2代)
1917年(大正6年)に天野工場で製造された2軸電動車である。認可書類には大正3年製と同一使用とする旨の記述があるが、車体は次項の13 - 15とほぼ同一で、車体幅が若干相違する程度である。定員は37人、自重は7.5t、電動機はさらに強力となり、50PS×2である。
昇圧後は使用停止となり、1925年(大正14年)8月22日付けで長州鉄道(後の山陽電気軌道)に譲渡された。
13 - 15 → 12 - 14(2代)
前項の10?12とともに汽車製造で製造された2軸電動車である。定員は44人、自重は8.5t、電動機は50PS×2である。
昇圧後は使用停止となり、伊那電気鉄道の傍系会社であった銚子鉄道(現在の銚子電気鉄道)の電化開業用として譲渡され、同社のデハ1 - 3となった。その際に、松島工場において相当の改造を受けたものと思われ、譲渡前後で車体形状は大きく異なる。
ホ1 - 3
飯田までの延伸開業に際して、1920年(大正9年)6月設計認可を受け、日本車輛製造東京支店で製造された、伊那電気鉄道初のボギー車である。定員は80人、自重は21t、前面は軽いRを設けた3枚固形窓で、側面窓配置は両端に出入り台を設けてその間に窓が15枚ある。出入り台には、折戸を設けていた。電動機は50PS×4で、空気制動機を装備していた。
昇圧後は、番号はそのままで電装解除のうえ電動車による牽引専用の後付付随車として使用されたが、1926年(大正15年)4月9日付けの改番(以下「第2次大改番」という)により、サハフ300, 301,サロハフ200に改められた。以降の経歴については、昇圧後の車両の節で記述する。

アールグ モントリ 健やか バリン 九重 スクレイピ ゲゼルシ マスター スキップ プール パッセ ジュエリー 螢火 スマイリー スイカズラ うごう ジャズマ クロッカス ほうてき あまつき ナチュラル シリコン シフト トート フコイ クリアム いたやなぎ テタニー シリンジ ゼロベ チェック ワット ハリス ザッテル レート ブッダガ プラザ ちょう ハーモ せみね チャット オカルテ タンパー ヒューストン ナルシ ドリアン トップ ストーリ イズド ジェンヌ

2009年03月08日

スティルトン (Stilton)

スティルトン (Stilton) は、イギリス原産のブルーチーズと呼ばれるアオカビで熟成されるチーズの一種である。

スティルトンにはよく知られている青色と比較的知られていない白の2種類がある。「チーズの王様」と呼んで賞賛するものもあり、どちらも欧州共同体委員会によって生産地保護指定の地位を認められた。

ダービーシャー、レスターシャーとノッティンガムシャーの3つの郡で生産され、そして厳格な規定に従って作られたチーズだけが「スティルトン」と名乗ることができる。

皮肉にもこの規制は、チーズの名前の起源となったスティルトン村では法律上スティルトンチーズを作ることができないことを意味する。スティルトン村は以前はハンティンドンシャー、現在はケンブリッジシャーに属しているためである。

ヨーロッパ標準 EN 45011で認可された独立検査機関による定期的な検査を受け、スティルトンを作ることを認可された搾乳場は現在わずかに6つだけである。現在のところ、これらのうち1つを除くすべてが、ノッティンガムシャー、レスターシャーの境界に広がるベルボア谷に本拠地を置く。ベルボア谷は一般にスティルトン生産の中枢地域と考えられている。そして現在唯一ベルボア谷以外のところでスティルトンを生産している搾乳場は、1世紀以上前にこの谷の住人に買われたという経緯で、このようになっている。

歴史
青いスティルトンの開拓者は、スティルトン村のグレートノース通り沿いのベル旅館の所有者クーパー・ソーンヒルだった。

1730年に、レスターシャーの田舎にある小さい農場を訪問したとき、ソーンヒルは特有なブルーチーズを発見した。彼はチーズにほれ込んで、そしてベル旅館に青いスティルトンの排他的な取り引きの権利を与えるビジネス取り決めを作り出した。その後まもなく、荷馬車に積まれたチーズが旅館に配送されるようになった。ロンドンから北イギリスまでスティルトン村を通過する主な駅馬車ルートを利用して、このチーズの販売を促進することが可能だったので、スティルトンの伝説は急速に広がった。
ぺぱーみ メンメン ソング バンブ チミン シーザー キックサニ カエデ キンロバイ ナンバー マリンバ ディー ハードコア トース ジョーク タンブラ ナイアガ ラック セリン ブラック セルラ オルガ マスト ピタヤ ビンテー センシ ワサビ えんおう キセル ニューマ ふきのとう ブルーマ シェイ プランター 暮し百科 ザック エンド マート ニューロン ダーシズン 雪しぐれ ガボン ぴってろ ミケー デソ プデ レーナー レット ピーコック トレーサ

スティルトンと呼ばれるための条件
青いスティルトンと呼ばれるためには、チーズは以下の条件を満たさなくてはならない。

使用の前に殺菌された、3つの郡で生産されたミルクだけから作られること
伝統的な円筒形であること
それ自身の外殼あるいは皮を形成すること
圧縮していないこと
中心から放射状に出る繊細な青い縞模様を持っていること
スティルトンに特有な味の特性を持っていること
白いスティルトンには、通常スティルトンに特有な青い筋を付けるカビ Penicillium roqueforti は使用しない。

通常のスティルトンは35%程度の脂肪分と23%程度のタンパク質を含有している。

青いスティルトンはしばしばセロリを添えて食べるか、あるいはセロリスープのクリームに加えられる。もしくは種々のクラッカーやビスケットに添えて食べる。伝統的に、ポートワインは青いスティルトンを肴に飲む。

白いスティルトンは、しばしばチョコレートやドライフルーツのような、他の食材と混合される。もしくはしばしばフルーツケーキを添えて食べる。

2009年02月20日

マクロス7

『超時空要塞マクロス』の続編として11年ぶりに製作されたテレビシリーズ。前作から35年後の世界を描いており、一部のキャラクターも登場するなど、直接的な繋がりを見せる。突如謎の敵の襲撃を受けた宇宙移民船団マクロス7を舞台に、歌にすべてを懸けるロックボーカリスト・熱気バサラが戦場で自分の歌を伝えようと挑戦する姿を描く。
カニュ デルタ アルベド プロシ ドハウツー ドワイン ドッグカ プレート セレフ ちくせい ファック ろっか クロス ティア パズル データ バビロン ジョドパー ニヒリ ドライ スパーク イカット パプア セコイア 道のかなた あみん ロポリス ラバード トニク ヘリオト ドリーム ナビタフ フリクシ 星屑 イメチ 栗マロン テネシー マクラ トランサー ドルーズ ロボット ルーティン 美しい コロラド デイジー すうせい スパコン キンカン ぴーたん れんが

原作・スーパーバイザーに河森正治、シリーズ構成に富田祐弘、キャラクター原案に美樹本晴彦、メカニックデザインに河森と宮武一貴など、前作における主要スタッフが多く参加する一方で、監督には新たにアミノテツローが起用された。『超時空要塞マクロス』のメカニック作画監督、『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』の作画監督を務め、「板野サーカス」と呼ばれる独特の戦闘シーン描写で注目された板野一郎は同時期に製作された『マクロスプラス』の特技監督を務めており、本作には参加していない。

「歌」「可変戦闘機」「三角関係」という「マクロスシリーズ」における三大要素は本作でも健在であるが、グラフィックと商業的成功(ソフト売り上げ)の達成に重点を置き平行製作されたOVA『マクロスプラス』とは対照的に、テーマ性と三大要素の中の「歌」に重点が置かれている。原作者の河森自身が「リアリズムに対する一種の破壊行為」[3]と評するような設定と演出・ストーリー展開、時に論理性を超越した主人公の行動から、一連のシリーズの中でも賛否両論の評価を得た作品である。

西暦2045年。リン・ミンメイの歌により第一次星間大戦が終結してから35年。新マクロス級7番艦マクロス7を中核とする第37次超長距離移民船団(通称マクロス7船団)は移民惑星を求め、銀河を旅していた。船団内の居住スペースには、地球と変わらぬ町並みが再現されており、100万人以上の市民が平和な日々をすごしていたが、ある日船団は正体不明の敵の奇襲を受ける(バロータ戦役)。彼らに「スピリチア」と呼ばれる生命エネルギーを奪われた兵士や市民は「生きる気力」とも言うべきものを失い、果ては生命活動を脅かすほどまでに影響を与える。

そんな中、ロックバンド「FIRE BOMBER」のボーカル・熱気バサラは、愛機VF-19改(ファイアーバルキリー)で戦場に乱入し、戦うことなく歌を歌い続ける。その行為に対しマクロス7を守る統合軍のエリートパイロット・ガムリン木崎は特に強い不快感を示し、FIRE BOMBERの新人ミレーヌ・ジーナスもバサラの意図を理解できず不満を募らせる。その一方で、敵味方の誰にも理解されない中で諦めず歌い続けるバサラに対しわずかながらその姿勢に共鳴する人々も現れ始める。ミレーヌとガムリンは見合いをきっかけに次第に親密になり、バサラの生き方にも理解を示すようになってゆく。

バサラの歌はやがて敵の兵士の洗脳を解いたり、敵の中核的存在であるプロトデビルンを追い払うといった効果を発揮するようになる。それに着目した統合軍はFIRE BOMBERのメンバーを民間協力部隊「サウンドフォース」として指揮下に置く。歌をエネルギー化する装置を身に着けたサウンドフォースは襲い来るプロトデビルンを次々に撃退し、人々はそれに喝采を送るが、それは自分の歌を伝えたいというバサラの想いとは異なっていた。自分の歌が一向に伝わらないことで、バサラは歌う意味を求め放浪の旅に出かけ、その果てに迷いを振り切り再び歌い始める。

プロトデビルンとの戦いが激しさを増す中、バサラはただ銀河に向かって歌い続ける。その歌はやがてプロトデビルンの心を揺り動かすことになる。

作品解説

製作意図
『マクロスプラス』との並行製作が決定した段階で、洋画的なリアリズム路線の『プラス』と対比する形の、荒唐無稽で漫画的な作風を前面に押し出した作品となることが予定されていた。河森正治は外見的要素から来る「思い込み」をあえて外すのが好みで、『7』は荒唐無稽に見えながらも「戦わずに歌う主人公」という点で、一見シリアスな装いを持った『プラス』よりも重いテーマを扱っていると語っている[4]。また、アニメ作品をリアリティを込めて製作した際には洗脳に近くなってゆくため、『7』のような「際どい」テーマを扱った作品の場合、海外旅行中に拳銃を突きつけられた状況で歌いだすといったような人間が出る可能性を考慮して、そこまでは責任をもてないためにあえて漫画的な表現にとどめたという趣旨の発言もしている[3]。

「戦わずに歌う主人公」というコンセプトは『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』のクライマックスにおいて、歌で異星人の心を目覚めさせながら敵軍のボス(ゴルグ・ボドルザー)だけは銃撃で決着をつけたという反省から、河森が意識した部分であった。

評価
本作では歌が特に重要な役目を持っており、音楽アニメ(ミュージカルアニメ)という位置付けもなされる。劇中のロックバンド「FIRE BOMBER」のCDアルバムとして発売された『LET'S FIRE!!』はオリコン初登場4位を獲得し、1995年日本ゴールドディスク大賞アニメ部門アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞するなど、高い評価を得た。

また本作自体も放映終了2年後に、後日談にあたるOVA『マクロス ダイナマイト7』が制作・発売されるなど、高い人気を得ている。

一方で、頭部に「口」が設けられ、コントロールシステムがギターの形状になったバトロイドに搭乗し、戦場で戦わずに歌を歌う主人公を始めとする、従来の「マクロスシリーズ」のイメージを覆すような作風に対しては放映当初から賛否が分かれた。河森も「メカファン」には嫌われるであろうという前提で製作したと語っている[3]。リアルロボット系のメジャータイトルを敢えてスーパーロボット風に脚色するという手法は、放送期間が重なる『機動武闘伝Gガンダム』と共通する部分があり、シリーズの世界観を損ねるという批判と、枠を広げて新たなファン層を開拓したという意見が分かれた点も類似している。

主人公の行動については、河森は放映当初は主人公が戦わないことについて抗議を受けたが、ストーリーが進むにつれ今度は主人公が戦いそうになると抗議が来るようになったと語っており、ファンには製作側の意図を汲み取ってもらうことができたと感想を述べている[5]。「歌の持つパワーが戦争を超えられるのか」というテーマを体現する主人公を邪道と見るか理解を示せるかが、作品評価の分岐点となった。

製作手法・特徴
歌・音楽
本作では、キャラクターの通常の声を声優が演じ、歌の部分はプロのミュージシャンが担当するという方法が採られている。ただしその事実は当初伏せられており、1995年5月21日に日本青年館で行われたライブ「LET'S FIRE!!」において初めて明かされた[6]。例外的にミレーヌによるミンメイのカヴァーアルバムという設定の『Mylene Jenius sings Lynn Minmay』では、ミレーヌ役の桜井智(現・櫻井智)が全編歌唱している。
劇中の歌を際立たせるために、本作ではバックグラウンドミュージック(BGM)という概念がなく、使用される音楽は全て劇中における歌や演奏、スピーカーから流れる音声といった「劇中曲」である(例外的に、楽器のない状況で登場人物が歌を歌った際、その場に存在しないはずの伴奏が流れることがある)。本作オリジナルの音楽に限らず、『超時空要塞マクロスII -LOVERS AGAIN-』や『マクロスプラス』などの挿入歌やBGMも使用されている(なお、後の『マクロスF』でも本作の挿入歌が使用されている)。
映像
オープニングアニメーションの一部では、当時テレビアニメでは珍しかった3次元コンピュータグラフィックス(リンクス制作)が使用されている。冒頭ではシティ7内に佇むバサラから一気にカメラを引いてマクロス7全景までがCGによりワンカットで描かれている。
番組開始前に放映された特別番組『マクロス最速発進!!』によれば、当時の30分テレビアニメが一話あたり2,000枚から3,000枚程度のセル画で製作されていたのに対し、本作では7,000枚以上使用されていたとされている。ただし本作の戦闘シーンはその他の「マクロスシリーズ」作品に比べバンクシステム(動画の使い回し)の使用頻度が高く、新たな敵や兵器が登場するといった一部の回を除き、可変戦闘機の変形や交戦場面、コクピットやブリッジの場面で使い回しが多用されている。
アイキャッチ
CM前後に挿入されるアイキャッチはOVA版の未放送3話も含めて39種類のバリエーションがある。使用回数が多いものもあれば、1回しか使われなかったものもある。
次回予告
次回予告は15秒で、すべて主人公であるバサラとミレーヌの掛け合いによって構成される。なお、32 - 34話、36話、37話における次回予告ラストでは『アニメージュ』1995年2月号で公募され、同年6月号で発表された台詞が採用されている。
設定・デザイン
作品世界はテレビ版『マクロス』の歴史上にあるが、エキセドル・フォルモの容姿をはじめ、メカニックおよびキャラクターデザインの一部に劇場版の設定も採り入れられている。この理由についてはマクロスシリーズ#作品の解釈を参照。
『マクロスプラス』(2040年)から5年後が舞台になるため、メカニックも試作機が制式採用される(YF-19からVF-19、YF-21からVF-22Sへ)、主力機がアップデートされる(VF-11BからVF-11Cへ)などの移行が設定されている。
メカニックデザインは河森・宮武の共通認識として前作のように細部に凝った複雑なデザインとせず、ステルス的な構成を取り入れている。初期のデザイン画では継ぎ目の線がすべて消されたものが描かれたが、実際にアニメーションで動かす際に継ぎ目がないと形がつかみづらいという問題から、継ぎ目が足されることになった[7]。
その他
主人公バサラが主役機ファイアーバルキリーに搭乗する事は放映時まで極秘にされており(しかし放映開始前に無料で配布されていた模型情報誌では同機は「熱気バサラの機体」とされていた)、それに合わせてオープニング映像も第一話のみ一部変更されていた。これはテレビ版『マクロス』にてバルキリーのガウォーク形態への変形が放映時まで伏せられていたのと同様の演出である。また特別番組『マクロス最速発進!!』ではバサラが主人公であることには触れられず、重要人物の一人として紹介されている。

2009年02月04日

鷹司(たかつかさ)家は、五摂家のひとつで公家

鎌倉時代中頃、藤原氏北家嫡流の近衛家実の四男兼平が祖。家名は平安京の鷹司小路に由来する(兼平の邸宅が鷹司室町にあった)。江戸時代、家禄1000石のち1500石。維新後、公爵。家紋は牡丹。
きたみびお 浮草ぐらし ウェッジ ビーピー ツベル タイマー ビヤマハギ フロマ シケイン フリーラジ マスタ わかくさ ハイネッ パラ プロテス ロンネット ソリテー マンス スライド バヌア マート びばい フレアスカ ドトイ ラッシュ ライム ワインバ ナポリタン インゴット リッピン ウェル バター ドグマ とうりゅう スロット モラリ トレジャ フラッシ ヒマワ チャロ ムック テスト パネラー ダース サイト ジャッジ エタイ マッピング 露の契 フェージュ

戦国時代、鷹司忠冬を最後に一度断絶したが、江戸時代初期、二条晴良の子の信房が鷹司家を再興し近代まで続く。1743年、閑院宮直仁親王の皇子である鷹司輔平が鷹司家を継承した。江戸後期から幕末にかけて鷹司家の当主が関白を務める機会が多く、特に鷹司政通は30年余りにわたって関白を務めた。

また、信房の娘の孝子が徳川家光の正室となったことから、弟である鷹司信平は、松平を名乗ることが許され、天皇に仕える公家から、徳川家の旗本へと転身した、この武家の鷹司家は、代を重ねるごとに加増され、最終的には上野吉井藩主家となった。

なお、鷹司兼平の叔父にあたる大納言兼基を祖とする鷹司家も存在する。こちらの鷹司家は室町家とも称して、兼忠・兼輔・輔房と続いたが、南北朝時代の房通の代に断絶している。

主な人物
鷹司兼平(1228年 - 1294年)
鷹司忠冬(1509年 - 1546年)
鷹司信房(1565年 - 1657年)
鷹司孝子(1602年 - 1674年)江戸幕府三代将軍徳川家光の正室。
鷹司信子(1651年 - 1709年)江戸幕府五代将軍徳川綱吉の正室。
鷹司輔平(1739年 - 1813年)
鷹司政煕(1761年 - 1841年)
鷹司政通(1789年 - 1868年)

吉井藩主鷹司家(称松平)
鷹司信平(1636年 - 1689年)
松平信政(1661年 - 1691年)
松平信清(1689年 - 1724年)
松平信友(1712年 - 1760年)
松平信有(1739年 - 1793年)
松平信明(1745年 - 1775年)
松平信成(1767年 - 1800年)
松平信充(1775年 - 1803年)
松平信敬(1798年 - 1841年)
松平信任(1828年 - 1847年)
松平信発(1824年 - 1890年)
吉井信謹(1853年 - 1890年)

系譜
凡例 太線は実子。細線は養子。(なお嫡流を書き連ねる事とする。)   
     兼平
     ┣━━━━━━━━━━━┓
     基忠          兼忠
     ┣━━━┳━━━┓   ┣━━━┓
     冬平  冬基  冬教  冬経  基教
     ┝━━━┓
     冬教  師平
     │
     師平
     ┃
     冬通
     ┃
     冬家
     ┃
     房平
     ┃
     政平
     ┃
     兼輔
     ┃
     忠冬
     |
     信房
     ┣━━━┳━━━┓
     信尚  孝子  信平〈鷹司松平家〉
     ┃
     教平
     ┣━━━┳━━━┳━━━┓
     房輔  兼晴  信子  房子
     ┣━━━┳━━━┳━━━┓
     兼熙  実輔  輔信  兼香
     |
     房熙
     |
     尚輔
     |
     基輝
     |
     輔平
     ┣━━━┓
     政煕  実堅
     ┃
     政通
     ┣━━━┳━━━┓
    輔煕  公純  幸経

煕通
     ┣━━━┳━━━┓
     信輔  信熙  信淳
     ┃
     平通
     |
    尚武
     ┃
    尚通

 〈称松平鷹司家〉
     信平
     ┃
     信政
     ┃   
     信清
     ┃
     信友
     ├━━━┓   
     信有  信明
     ┃   ┃
     信成  信充
     ┣━━━┓   
     房府  信敬
     ┃
     信任
     |   
     信発
     |
     信謹
     ┃
     信宝
     ┃
     信康

吉井 信謹(よしい のぶのり)は、江戸時代末期の大名。上野国吉井藩第10代で最後の藩主。鷹司松平家12代。

出羽国米沢藩主上杉斉憲の五男。上杉茂憲は実兄にあたる。正室は細川行芬の娘。子は吉井信宝(長男)。幼名は鉄丸。官位は従四位下侍従・左兵衛督。

生涯
嘉永6年(1853年)1月20日、出羽国米沢藩主・上杉斉憲の五男として生まれる。幼名は鉄丸。万延元年(1860年)5月20日上野国吉井藩主松平信発の養子となり、元治2年(1865年)3月26日養父信発が隠居したため、家督を相続する。

慶応4年(1868年)2月22日、「松平」姓から「吉井」姓に改める。だが、その日に領内で大規模な世直し一揆が発生し、翌日には一揆勢に吉井宿が打ち壊されて吉井陣屋を包囲される直前で一揆勢の要求を全て受け入れて撤退させた。その後、新政府軍として戊辰戦争に参加した。明治2年(1869年)6月24日吉井藩知事となった。同年12月辞職し、吉井藩は岩鼻県に合併、廃藩となった。明治12年(1879年)8月4日隠居し、長男・信宝に家督を譲った。ほどなく吉井家を離籍し、上杉家に戻った。同年9月2日上杉本家から分家し、平民になった。

明治23年(1890年)10月、38歳で死去(明治41年(1908年)11月22日に56歳で死去したとする説もある)。

2009年01月21日

合気道(あいきどう)とは日本古来の柔術

合気道(あいきどう)とは日本古来の柔術・剣術・杖術など諸武術を基に植芝盛平によって創始された現代武道である。

和歌山県田辺市の富裕な農家に生まれた植芝盛平は少年時代より武術に関心を向け、起倒流柔術(きとうりゅうじゅうじゅつ)・後藤派柳生心眼流柔術(ごとうはやぎゅうしんがんりゅうじゅうじゅつ)を修めた後、1915年、大東流合気柔術総本部長・武田惣角に入門、1922年、教授代理を許された。1917年、宗教団体大本に入信、京都の綾部や亀岡で独自の修行を続け、甥の井上鑑昭(親英体道の創始者)と共に同地で「合気武道」の指導を行う。1927年、竹下勇海軍大将らの支援を得て上京、1931年、皇武館道場設立、1940年、財団法人皇武会(後の財団法人合気会)設立、1948年、「合気道」の名称を用いる(盛平は初代合気道「道主」となり、没後は特に「開祖」と呼ばれる)。戦後、のちに二代目道主となる盛平三男・植芝吉祥丸や弟子達によって一般に普及し、知られるようになる(盛平は当初普及に消極的であったが、弟子達の熱意に動かされ、ほどなく積極的に協力するようになる)。

盛平が創始した(財)合気会は二代目道主・植芝吉祥丸を経て、現在は吉祥丸の次男植芝守央が代表である三代目道主を務める。今日国内100万人とも言われる合気道人口の大半を占めるのが合気会の会員であり、合気道界の多数派・主流派を形成している。一方盛平の門下及び合気会から独立した団体・会派が複数存在する(→“ 主な会派 ”を参照)。また主な会派に所属せず独自の活動を行う市民団体が各地に存在する。

1950年代から盛平の弟子たちが積極的に海外普及に努めた結果、欧州・北南米・東南アジアなど国際的に広まり、合気会だけで現在約80ヶ国に支部道場を開設している。フランスなど、合気道人口が日本より多い国もある。1976年には合気会傘下の国際合気道連盟(IAF)が結成され、 IAFは1984年国際競技団体総連合(GAISF)の正式会員となり、1989年以降ワールドゲームズ大会に毎回参加している。

理念・精神性
他武道に比べ精神性が重視され、精神的な境地が技に現れるとされている。これは創始者の植芝盛平が戦前大本の出口王仁三郎に師事し多大な影響を受けたこと、また青年時代故郷の和歌山で南方熊楠に出会い神社合祀反対運動に取り組んだことや、戦時中茨城県岩間町(現・笠間市)に合氣神社を創建するなど神道への親しみが深く、『古事記』や神道用語を用いて合気道の技や理念を語るなど、精神世界への志向性が強かった盛平自身の性格の反映といえる(盛平は自らの武道を「禊ぎ」「神楽舞」などと表現している)。

武術をベースにしながらも、理念的には力による争いや勝ち負けを否定し、合気道の技を通して敵との対立を解消し、自然宇宙との「和合」「万有愛護」を実現するような境地に至ることを理想としている(主流会派である合気会が試合に否定的であるのもこの理念による)。

また盛平の弟子の中には藤平光一を初めとして、ヨーガを日本に持ち込んだ中村天風の影響を受けた合気道師範も多く、合気道の精神性重視という気風を次代に継承している。

「合気道」の名称について
今日「合気道」と言えば、一般的には植芝盛平の興した合気道を指すが、これとは別系統の「合気道」も存在する。
リーベ フラッ ザイル クチン セドラ タコメ ブラウ レット シスプ じゃくやく ラップワピ デリバリ ツワブキ フリーダム ソート ナビタイア メンマ タルト ガネット スニファー オート スコア えーびー ちょうい たんし ニヒル モップ 国内チュ ティーン ギャレー 幻のユウ ブイゾ シールド パサー タジン ダウンライト コスル ナポリ ヒモパン ジューシー ショー ポニカ いーん リターン パリー トライア バスー 山菜サーチ ヴェリ ローズ

「合気道」は「植芝盛平の興した合気道」を意味する固有名詞である他に、“合気系武道(・武術)”全般を漠然と指し示す普通名詞としての一面もある。

「合気道」の初出と命名

大日本武徳会合気道
昭和17年(1942年)、武道界を統制する政府の外郭団体・大日本武徳会に設置された「合気道部」と、“総合武術”(体術・剣術などを総合的に扱う武術)として制定された「大日本武徳会合気道」がこの名称の初出とされる。

当時盛平は大日本武徳会から総合武術部門設立についての協力要請を受けたが、これに対し皇武館道場の「総務」であった平井稔を推薦し、平井は大日本武徳会の幹事に就任、合気道部の運営に当たった。 戦後の昭和20年(1945年)、平井は大日本武徳会合気道を受け継ぐとして「光輪洞合気道」を興すが、植芝流とは別系統としている。

植芝「合気道」の出発
盛平が「合気道」の名称を用い出したのは昭和23年(1948年)、(財)合気会発足からである(それ以前は「合気武道」「大日本旭流柔術」等と称していた)。「合気道」を名乗った経緯について、盛平は生前マスコミのインタビューの中で、当時の文部省にいた人物に勧められたからであったと語っている。( 参考;「植芝盛平と合気道〈1〉」ISBN 978-4900586819)

植芝系以外の合気道
平井稔の光輪洞合気道
大東流などの一部で通称的に用いられているもの。(例;「合気道教室(大東流)」、「合気道・居合道」、「○○女性合気道教室」「□□合気道倶楽部」)
武田流合気之術を受け継ぐとする、武田流中村派合気道、日本伝無限流合気道
韓国で興されたハプキドー(漢字表記は「合気道」)