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2009年03月 アーカイブ

2009年03月08日

スティルトン (Stilton)

スティルトン (Stilton) は、イギリス原産のブルーチーズと呼ばれるアオカビで熟成されるチーズの一種である。

スティルトンにはよく知られている青色と比較的知られていない白の2種類がある。「チーズの王様」と呼んで賞賛するものもあり、どちらも欧州共同体委員会によって生産地保護指定の地位を認められた。

ダービーシャー、レスターシャーとノッティンガムシャーの3つの郡で生産され、そして厳格な規定に従って作られたチーズだけが「スティルトン」と名乗ることができる。

皮肉にもこの規制は、チーズの名前の起源となったスティルトン村では法律上スティルトンチーズを作ることができないことを意味する。スティルトン村は以前はハンティンドンシャー、現在はケンブリッジシャーに属しているためである。

ヨーロッパ標準 EN 45011で認可された独立検査機関による定期的な検査を受け、スティルトンを作ることを認可された搾乳場は現在わずかに6つだけである。現在のところ、これらのうち1つを除くすべてが、ノッティンガムシャー、レスターシャーの境界に広がるベルボア谷に本拠地を置く。ベルボア谷は一般にスティルトン生産の中枢地域と考えられている。そして現在唯一ベルボア谷以外のところでスティルトンを生産している搾乳場は、1世紀以上前にこの谷の住人に買われたという経緯で、このようになっている。

歴史
青いスティルトンの開拓者は、スティルトン村のグレートノース通り沿いのベル旅館の所有者クーパー・ソーンヒルだった。

1730年に、レスターシャーの田舎にある小さい農場を訪問したとき、ソーンヒルは特有なブルーチーズを発見した。彼はチーズにほれ込んで、そしてベル旅館に青いスティルトンの排他的な取り引きの権利を与えるビジネス取り決めを作り出した。その後まもなく、荷馬車に積まれたチーズが旅館に配送されるようになった。ロンドンから北イギリスまでスティルトン村を通過する主な駅馬車ルートを利用して、このチーズの販売を促進することが可能だったので、スティルトンの伝説は急速に広がった。
ぺぱーみ メンメン ソング バンブ チミン シーザー キックサニ カエデ キンロバイ ナンバー マリンバ ディー ハードコア トース ジョーク タンブラ ナイアガ ラック セリン ブラック セルラ オルガ マスト ピタヤ ビンテー センシ ワサビ えんおう キセル ニューマ ふきのとう ブルーマ シェイ プランター 暮し百科 ザック エンド マート ニューロン ダーシズン 雪しぐれ ガボン ぴってろ ミケー デソ プデ レーナー レット ピーコック トレーサ

スティルトンと呼ばれるための条件
青いスティルトンと呼ばれるためには、チーズは以下の条件を満たさなくてはならない。

使用の前に殺菌された、3つの郡で生産されたミルクだけから作られること
伝統的な円筒形であること
それ自身の外殼あるいは皮を形成すること
圧縮していないこと
中心から放射状に出る繊細な青い縞模様を持っていること
スティルトンに特有な味の特性を持っていること
白いスティルトンには、通常スティルトンに特有な青い筋を付けるカビ Penicillium roqueforti は使用しない。

通常のスティルトンは35%程度の脂肪分と23%程度のタンパク質を含有している。

青いスティルトンはしばしばセロリを添えて食べるか、あるいはセロリスープのクリームに加えられる。もしくは種々のクラッカーやビスケットに添えて食べる。伝統的に、ポートワインは青いスティルトンを肴に飲む。

白いスティルトンは、しばしばチョコレートやドライフルーツのような、他の食材と混合される。もしくはしばしばフルーツケーキを添えて食べる。

2009年03月24日

伊那電気鉄道の電車

伊那電気鉄道の電車(いなでんきてつどうのでんしゃ)

本項では、伊那電気鉄道(現在の東海旅客鉄道飯田線の一部)が保有した電車について記述する。
伊那電気鉄道は、発足当初は伊那電車軌道と称し、1909年(明治42年)12月、軌道法に準拠した「軌道」として辰野 - 松島間を開業し、1911年(明治44年)には、伊那町までが、軌道法準拠により建設された。伊那町以南は、軽便鉄道法に準拠[1]する「軽便鉄道」として建設され、1927年(昭和2年)に天竜峡までの全区間が開通した。

その間、1919年(大正8年)8月に社名を伊那電気鉄道と改称し、1923年(大正14年)3月に辰野 - 伊那松島間、同年12月に伊那松島 - 伊那町間を改築のうえ地方鉄道に変更し、架線電圧を600Vから1200Vに昇圧した。

このような経緯により、伊那電気鉄道の車両は、1923年の昇圧を境として2期に区分することができる。昇圧後は、一部の600V用電車が付随車に改造されて、1200V用電動車による牽引用に残されたほかは、新たに1200V用電動車を新造し、取替えられている。

伊那電気鉄道は、1943年(昭和18年)8月1日に、路線の連続する三信鉄道、鳳来寺鉄道、豊川鉄道とともに戦時買収され、鉄道省の飯田線となった。この時点で在籍していたのは、電気機関車9両、電車29両(電動車15両、付随車14両)、貨車51両(有蓋車24両、無蓋車27両)であった。

また、伊那電気鉄道の車両について特記すべき事は、自社松島工場での車両製造能力を有していたことで、自社用ばかりでなく、他社(岡崎電気軌道、三河鉄道、筑摩電気鉄道)用の車両製造も請け負っていた。

昇圧前の車両 [編集]
この時代の車両は、延べで2軸電動客車14両、ボギー電動客車3両、2軸付随客車5両、2軸電動貨車6両の計28両である。

伊那電気鉄道が軌道を生い立ちとしたことから、路面電車規格の4輪(2軸)車が主体である。開業時には電動客車3両、付随客車1両、電動貨車1両の計5両であったが、軌道法に基づく辰野 - 伊那町間では連結運転をすることができないため、同車の使用開始は地方鉄道法に準拠して建設された伊那町以南開業時にまでずれ込んだ。また、連結運転ができないという事情から、電動貨車を多数保有したのも特徴である。

また、1921年(大正10年)9月には、在籍車に廃車や譲渡により欠番を生じていたことから、番号整理のための改番(以降「第1次大改番」と呼ぶ)を実施している。

電動客車 [編集]
1 - 3
1909年12月認可により、東京の天野工場で製造された2軸電動車である。前面は3枚窓で中央窓上に行先幕、同窓下に前照灯を装備している。出入り台は開放式で、側面窓は8枚、屋根はモニター形である。定員は38人、自重は5.3t、電動機は25PS×2で台車はブリル21Eである。集電装置はポールによる単線式で、2基を屋根中央部に装備している。
第1次大改番時には番号の変更はなく、1924年(大正13年)度に除籍されたものと思われる。
1, 2(?) → 7, 8
1911年(明治44年)に、後述の電動貨車1両とともに天野工場で製造された2軸電動車である。車体等の詳細は不明であるが、定員は37人、電動機出力は36PS×2に変更されている。1914年(大正3年)に次項の4 - 6が製造された際に、7, 8と改められている。
しかし、前述のとおりとすると、同じ電動車である前述の1 - 3のグループと番号が重複するものがあったことになるが、これは開業したばかりの鉄道線に軌道線用として新造したの2両(4, 5と付番されていた?)を振り向け、鉄道線用の1, 2としたのではないかと鉄道史研究家の白土貞夫は推定[2]している。第1次大改番時には、他の車両が7, 8と付番されていることから、それまでに処分されたものと考えられる。
4 - 6 → 6 - 8(2代)
1914年(大正3年)に汽車製造で製造された鉄道線用の2軸電動車である。定員は37人、自重は7tで、車体はモニター屋根の角張った車体である。電動機は37PS×2で、台車はブリル21Eである。第1次大改番では、6 - 8(2代)となった。昇圧後は使用停止となり、1932年(昭和7年)7月12日付けで廃車、解体された。
10 - 12 → 9 - 11(2代)
1917年(大正6年)に天野工場で製造された2軸電動車である。認可書類には大正3年製と同一使用とする旨の記述があるが、車体は次項の13 - 15とほぼ同一で、車体幅が若干相違する程度である。定員は37人、自重は7.5t、電動機はさらに強力となり、50PS×2である。
昇圧後は使用停止となり、1925年(大正14年)8月22日付けで長州鉄道(後の山陽電気軌道)に譲渡された。
13 - 15 → 12 - 14(2代)
前項の10?12とともに汽車製造で製造された2軸電動車である。定員は44人、自重は8.5t、電動機は50PS×2である。
昇圧後は使用停止となり、伊那電気鉄道の傍系会社であった銚子鉄道(現在の銚子電気鉄道)の電化開業用として譲渡され、同社のデハ1 - 3となった。その際に、松島工場において相当の改造を受けたものと思われ、譲渡前後で車体形状は大きく異なる。
ホ1 - 3
飯田までの延伸開業に際して、1920年(大正9年)6月設計認可を受け、日本車輛製造東京支店で製造された、伊那電気鉄道初のボギー車である。定員は80人、自重は21t、前面は軽いRを設けた3枚固形窓で、側面窓配置は両端に出入り台を設けてその間に窓が15枚ある。出入り台には、折戸を設けていた。電動機は50PS×4で、空気制動機を装備していた。
昇圧後は、番号はそのままで電装解除のうえ電動車による牽引専用の後付付随車として使用されたが、1926年(大正15年)4月9日付けの改番(以下「第2次大改番」という)により、サハフ300, 301,サロハフ200に改められた。以降の経歴については、昇圧後の車両の節で記述する。

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